ドリームキャスト仕様

ドリームキャスト仕様

DreamcastConsole

ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年11月27日に第6世代ゲーム機の先陣として発売された。

                                                                   

 ドリームキャスト本体仕様
CPU SH4:128bitグラフィックス・エンジン内蔵RISC CPU (動作周波数 200MHz 360MIPS/1.4GFLOPS)
グラフィックエンジン PowerVR2 DC(CG描画性能:300万ポリゴン/sec. 以上)
サウンドエンジン スーパー・インテリジェント・サウンド・プロセッサ 32bit RISC CPU 内蔵(64チャンネルPCM/ADPCM)
メモリ メイン:16MB テクスチャ:8MB サウンド:2MB
モデム 33.6Kbps標準装備(リムーバブル方式)
メディア GD-ROM(ジーディーロム) - 新規格 高密度記憶媒体(容量:約1GB)
CD-ROMドライブ 最高12倍速(角速度一定方式)
OS Microsoft(R) Windows(R) CE カスタムバージョン
最大同時発色数 約1,677万色
主な画像表示 処理機能
  • Bump Mapping(パンプ・マッピング) 凹凸の生成
  • Fog(フォグ) 霧効果
  • Alpha-Blending(アルファ-ブレンディング) 半透明効果
  • Mip Mapping(ミップ・マッピング) ポリゴンとの距離に合わせたテクスチャの自動切り替え
  • Tri-Linear Filtering(トライ-リニア・フィルタリング) バイ-リニア・フィルタリングの並行処理結果を加重平均してテクスチャとして使用
  • Anti Aliasing(アンチ・エイリアシング) 輪郭に生ずる「ギザギザ」を滑らかに処理するフィルタ機能
  • Environment Mapping(環境マッピング) 周囲の環境が映ったテクスチャーをオブジェクトに貼り込む機能
  • Specular Effect(反射光エフェクト) オブジェクトに光沢を施す機能
型名 HKT-5000
使用電源 AC100V±10% 50/60Hz
消費電力 約22W
使用環境 温度:5~35度、湿度:20~90%RH(結露なきこと)
保存環境 温度:-20~60度、湿度:10~90%RH
データセーブ方法 VM(ビジュアルメモリ)使用
その他機能 時計機能など
本体最大寸法 190mm(W)×195.8mm(H)×75.5mm(D)
本体重量 約1.5kg

 

「ドリームキャスト」の名称は、dream(夢)をbroadcast(広く伝える)という願いを込めた造語である。

発売時期の近いゲーム機には、前世代機セガサターンのライバル機のひとつであったNINTENDO64や、本機より後に発売され本機のライバル機となるPlayStation 2などが挙げられる。

広告戦略

ドリームキャストのPRでは、大川功会長が懇意にしていた秋元康を宣伝プロデューサーに招聘。

先代のせがた三四郎人気を引き継ぐ形で、ゲーム機そのものよりも出演者のコミカルな演技などインパクトを前面に押し出した様々な展開が図られた。

宣伝広告費はセガとしては空前規模の130億円を投じる事になった。

まずティザー広告として1998年5月21日、22日に新聞での全面広告が打たれた。

21日は「セガは倒れたままなのか」のコピーで戦国武将が討ち死にした場面の写真、22日は「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」のコピーとともに、討ち死にしたと思われた武士たちが一斉に立ち上がる写真であった。

同年6月にセガは秋元を社外取締役に選任。

6月19日に「湯川専務」シリーズが開始され、「セガなんてだっせーよな!プレステのほうがおもしろいよな!」「帰ってプレステやろうぜ〜!」などのフレーズを使った自虐的なCMが放送され、話題になった。

このCMにはセガの専務だった湯川英一をはじめとする当時の役員が出演している。

また、このCMでソニーの商標である「プレステ」という言葉を用いる許諾をソニーから得ている。

この手法は、ソニーがかつて「ビデオ戦争」(VHSとβの規格争い)での敗北を決定的にした時のものと類似している。

このCMは同年の夏休み期間を挟み発売前まで引き続き放送され、湯川専務は一躍時の人となる。

本機発売直前となる1998年11月にセガ・大川功・秋元康が共同出資し、株式会社エイティーワン・エンタテイメントを設立。

秋元が代表取締役社長となり、ドリームキャスト関連の宣伝プロモーションを事実上同社へ移管した。

発売に前後してDAIBAッテキ!!・DAIBAクシン!!といった同番組発のアイドルであるチェキッ娘出演冠番組の1社提供や発明BOYカニパンシリーズに約1年間継続してスポンサードを行い、本機発売直前の11月25日には秋元のプロデュースで湯川英一が「湯川専務」名義で日本コロムビアから企画盤のシングルCD「Dreamcast」をリリースした。

本機発売前からマスコミに湯川や秋元のインタビューを中心にドリームキャストが取り上げられるなど社会的に話題を作り上げ、てこ入れを行った。

11月27日の発売直後にはジャニーズJr.(当時)の滝沢秀明が湯川専務と共にリヤカーで本機を売り捌く作品も放送された。

湯川の執行役員常務への降格に伴い「湯川元専務」シリーズとなり継続したが、1999年6月の秋元康のセガ社外取締役退任により事実上打ち切られ、以後はソフトのみの宣伝となった。

ヨーロッパではイングランドプレミアリーグのアーセナルFCのスポンサーとなり、胸にDreamcastのロゴを入れていた。

発売直前から2000年にかけてセガ提供のテレビ番組のクレジットは「SEGA」ではなく「Dreamcast」だった。

ドリームキャスト立ち上げに失敗

広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。

しかし、11月28日の本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。

NECとVideoLogicが共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。

さらに、チップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった。

需要に見合った増産が望めず、結果的に初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても、売りに出せない」という苦悩が続く非常事態となった。

事態は深刻さを極め、キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だったローンチタイトルの多くが発売延期となった。

自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』はなんとか間に合わせ、初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、販売台数は予定を下回る結果に終わった。

さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった。

結果的にハードとソフトの供給の遅れが、市場形成期の成長に急ブレーキをかけた。

Windowsと互換性がありソフトの製作のハードルは低かったものの、この立ち上がりのつまづきがサードパーティを消極的にし、ソフトメーカーの参入が伸びなかった。

この影響を理由として、DC発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ社長を兼任)。

ソフト面では『バーチャファイター3tb』『セガラリー2』、前機のセガサターンでは発売しなかったセガの看板タイトル『ソニックシリーズ』の新作『ソニックアドベンチャー』を1ヶ月後に発売させる等の戦略を取った。

ハードメーカーとしてのセガの終焉

1999年6月に入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務する体制とし、定価を29,900円から19,900円へ値下げして再立ち上げを図った。

値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となってしまった。

撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』、『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった。

2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。

翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下することになった。

そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、大川会長兼社長ら役員同席のうえで家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。

コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2やニンテンドーゲームキューブ・ゲームボーイアドバンス、Xboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。

これに伴い本体200万台の在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。

それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から1998年3月期以降3期連続で約350-430億円の連結純損失を計上しており、本来であればセガの存続が危ぶまれる状況に陥った。

しかしながら翌2月1日に大川功が私財約850億円をセガに寄付する事を早々に表明したことにより、最悪の事態は回避された。

大川功は2000年までに私財拠出やCSKを通じて既に1000億円以上の資金提供を第三者割当増資引受などで行い、セガの財務面での下支えに寄与した。

しかしその後体調が悪化し、ドリームキャストの終焉とセガの再建を見届けるような形で同年3月16日に逝去する。

同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9,900円という投げ売り状態の破格の定価に改定することにした。

更にセガを取り巻く情勢を自虐的なパロディとして反映させたシミュレーションRPG「セガガガ」がこのタイミングで発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。

その後、日本市場での売れ行きが好調となり、直販のドリームキャストダイレクトでは品薄状態が続く事態となり、海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンプル版の出荷を開始した。

2002年前半には市場において一度も優位に立つことなくゲーム機売場から消え、本体の新品販売が終了した。

このドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。

ドリームキャストは事実上セガ最後のゲーム機となった。

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